2010年07月

2010年07月30日

鶴子さんのように英語力があったら…

22歳になったばかりの7月、ニューヨークのグランドセントラルターミナルにおりたった原口鶴子は、いったいどんな気持ちであの駅を見渡したのか。映画では、1912年、完成したばかりのターミナルの絵を、ニューヨーク公共図書館アーカイブから許可(もちろん有料)を得て挿入しているが、実際は、鶴子が到着した1907年はまだ改装中だった。何処まで改装されていたかわからないが、かなりごちょごちょしていただろう。

鶴子は、その中を迎えに来てくれたYWCAの女性二人に付き添われて、レキシントンアベニュー沿いの宿舎にはいった。この建物を探すのが一苦労だった。手記には歩いた道順だけあって住所がない。手記の流れに沿って地図で探したが、見当たらない。下調べでニューヨークへ行き、実際にグランドセントラルターミナルの周りを何回も歩いたが、広いうえに、自分でビル名を一つづつ確かめなければならず(日本のように尋ねまわることが…語学力のなさ)疲れてしまった。当時、駅に直結している立派なホテルがあるのがわかったが、「命がけでレキシントンアベニューを渡り宿舎にはいった」という手記にあわない。

で、結局、戻ってからニューヨークのYWCAにメールで問合せると、1907年前からNYC-YWCAが所有していて、資金難で2005年に現地のプロパーに売ったビルがあるが、それでないかと教えてくれた。しかも、そのビルは2007年に取り壊されるので閉鎖されており、外だけならまだ撮影できるとのこと。さっそくネットで調べたら、鶴子の手記と同じ階数があり、女性のためのトレーニングセンターや宿泊のための部屋があった。ここだ、間違いない!ただ、そのビルはレキシントンアベニュー沿いにあるが、ターミナルから行く場合、渡るという記述とは合わない。又調べ直すと、1907年当時、ターミナルの周りは今のように建物がびっしり建っておらず、道路だったから、鶴子がレキシントンアベニューを渡ったとカン違いしたのででないか…。2006年11月、最後のNY撮影の初日、建物を探しあてた時は、感無量だった。(現在は高層のインテリジェントビルとなっている)。

これだけ書いただけでも、ニューヨークでの製作中のあれこれがよみがえるが、鶴子は22歳で大きな荷物を抱え一人で乗り込んだわけで…、それだけで、尊敬してしまう。

さらに、語学力!留学前の一年間、母校の日本女子大学校で助手をしながら留学準備をしたとのこと。恐らく、英語の猛勉強をしたのでないだろうか。いや、数学と音楽と体育がずば抜けて出来たから、語学の先天的能力が高かったのか。留学した年のクリスマス、恩師の成瀬仁蔵先生に大学での受講の様子や勉強上の悩みをめんめんと書き綴った英文の手紙を送っている。日本女子大から撮影許可をいただき、撮影したが、その流れるような筆記体の英字の美しさ。アメリカ人もびっくりしていた。それから5年後、英文で心理学の論文を書いて博士号を取得!さすがと思う。

私も、もう少し、海外の人とコミュニケートして視野を広げたいと、遅ればせながら英会話の練習をしているが「もうダメ!」。中学、高校、大学…何年、英語の勉強してきたのか!無駄無駄無駄だった。僅か2ケ月だけど、ニューヨーク大学で映画の講義も受けた。家でみるテレビはニュース以外、ほとんど米ドラマで、英語にして聞いている。なのに、語学力が身につかない。というか、年とともに退化している。

簡単な挨拶や、質問はできても、仕事の交渉や取材となると、わからない、理解できない、伝えられない、焦る。英語が自由に話せたら…、親心から子どもたちに、英語だけでもマスターすれば失業しても仕事がみつかる、と話しても頷くのはサラリーマンの長男だけ。長女と次男は、「日本語が好きだし、アメリカへ行きいたいとも思わない」と言う。どうやったら、野心のある子どもになるのか、あまりに無欲すぎないか。

前のブログに書いたタハラレイコ・上杉幸三マックス夫妻が立ち上げた宇野港芸術映画座がいよいよ8月2日から8日まで岡山で始まる。「円明院 ある95才の女僧によれば」をはじめ内外のドキュメンタリーの秀作やニューヨークの子どもたちが作った短編も上映。ちょうど、直島で芸術祭も開催されており、バカンス(古い!いまは何ていうの?)かたがたが観にいかれたらどうでしょうか。
http://unoportartfilms.org/
「円明院 ある95才の女僧によれば」は8月18日(水)、東京なかのZERO視聴覚ホールでも特別試写会が行われます。監督夫婦も参加してお話もあります。そちらも、ぜひ、どうぞ。詳しくは、http://www.mrex.org/Japanese.html